遊びに出かけよう!
市川市国府台3−9
047−372−0062
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昭和33年9月の開設。
眼下に江戸川を望み桜の名所として有名。
かつてこの地には、国府台城(市川城)があり、数々の争乱の舞台となってきたが、今は8.2haの洋式庭園として、市民の憩いの場になっている。
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里見公園周辺は古戦場だった!
<市河合戦/1456年(康正2年)>
1455年(康正元年)に、千葉介重臣、原胤房と結託し、下総馬加(まくわり)城(千葉市幕張)の馬加康胤(まくわりやすたね)が、千葉介一族(胤直・胤宣父子と千葉介胤直の弟千葉介胤賢ら)を滅ぼし、馬加康胤は自らが新しく千葉介となっていた。
生き残った千葉介胤賢の子、実胤・自胤が上杉氏らの支援を受けて、市川城に入り、馬加に対抗していたが、翌年正月19日に千葉介康胤(馬加)を援護する足利成氏の兵に市川城が攻められ、武蔵の国(東京都)に追われた合戦を市河合戦という。
これ以後千葉氏は、下総と武蔵の二派に別れて争うことになる。
<太田道灌による国府台城の築城/1478年(文明10年)>
1478年(文明10年)に、足利氏と上杉氏の和睦により、康胤(馬加)の孫、千葉介孝胤は孤立し、同年暮れに上杉家の家臣、太田道灌に攻撃された。このときに太田道灌は、国府台城を築城し、葛飾境根原(柏市)で千葉・原軍を破り、翌年、道灌の弟、太田資忠(すけただ)と千葉自胤の軍勢が、千葉介孝胤のこもる下総臼井城を攻め、これを討ち取っている。
<第一次国府台合戦/1538年(天文7年)>
第一次国府台合戦は、小田原の後北条氏 対 小弓公方(おゆみくぼう)足利義明および里見氏ら上総・安房の諸将の戦いである。
永正・大永年間の頃、真里谷(まりやつ:木更津市)武田氏に迎えられた足利義明(古河公方足利高基の弟)は、武田氏と争う原氏の小弓城(千葉市)を攻め落とし、ここを居城とし、房総の諸将を従わせ始めていた。
天文6年に真里谷武田氏の信隆・信応兄弟での家督争いが起こり、信隆は峯上城・百首城(富津市)を居城に相模小田原の北条氏綱を頼ったのに対し、真里谷城の信応は、足利義明に支援を求めた。
この頃、里見氏は、後北条氏の鎌倉鶴岡八幡宮の造営に対する援助を打ち切り、足利義明の要請に応える関係になっていた。
天文7年2月に北条氏綱が、下総葛西城を攻めたことから、足利義明は後北条氏の房総侵略と見て、10月上旬に、里見氏らと国府台に布陣。
北条氏綱・氏康父子は、10月2日小田原城を出発し、その日のうちに江戸城に入り、6日の夜半に江戸城を出陣。7日明け方に松戸対岸に到着。夜明けとともに、江戸川を渡河し始める。
この時、松戸の諸将がこの旨を国府台の房総軍に知らせたが、義明は後北条軍をあなどり、渡河してくるのを阻止しなかったと伝えられている。
主戦場は、現在、矢切の渡しのある矢切台といわれている。「本土寺過去帳」によれば、義明・子・弟の三人をはじめ1000余人が討死にとなり、里見氏は義明の討死によって戦場を離脱。房総軍の敗北に終わっている。
<第二次国府台合戦/1564年(永禄7年)>
越後の長尾景虎は、永禄5年に、鎌倉鶴岡八幡宮の神前で上杉の名跡を継ぎ、関東管領に就任(後の上杉謙信)し、この時、里見家重臣の正木時茂の外交交渉により、里見・上杉同盟が成立した。
こうして、里見・上杉両氏は、関東の後北条氏を南北から呼応して挟撃することになる。
永禄6年の暮れから永禄7年の正月にかけて、毎年秋から冬にかけて、関東に進入してきている謙信の要請を受けた里見氏は、下総国府台に布陣し、太田資正の岩付城へ兵糧を送るべく武州進出の準備をしていた。太田資正と太田道灌のひ孫にあたる太田康資は、里見・上杉両氏を動員して、太田氏の主城であった江戸城を後北条氏から奪回しようと企てていた。
正月5日、里見氏が、市川に陣取り、兵糧を岩付に送ろうとしているが、値段が折り合わず手間取っている旨、北条氏康の耳に入り、今が攻撃の絶好の機会と判断した氏康は、背後の上杉謙信に覚られぬうちに里見氏を滅ぼそうと、2万余騎を集め、短期決戦の覚悟で(兵糧は3日分しか持たなかった)国府台を目指した。
この時里見軍は太田軍を合わせて8千余騎であった。
正月7日、早朝に後北条軍の本隊を待たずに、江戸城代遠山丹波守と葛西の富永軍が江戸川矢切台の対岸に陣取り、矢切台地上の里見軍とにらみ合いになった。
里見軍は、遠山・富永軍を誘い込むために、策を講じ、一旦退散と見せかけ、追い討ちの為、渡河してきた遠山・富永軍が台地の中腹まで登ってきたところを、まちうけ急襲に成功。遠山・富永ほか名だたる武将ら100余騎が戦死した。
この晩、里見・太田軍は祝杯を挙げ、おそらくかなり油断した。
翌8日の夜明け前に、北条氏康は、兵を二手に分け、氏康は、迦羅鳴起の瀬(矢切の渡しのあたり)を渡り、国府台溺瀬に迫り、氏康の子氏政は、江戸川を真間山下の根本に渡り、真間の森側から国府台をはさみ、卯の刻(午前6時)にいっせいに里見・太田軍の本陣を攻め込んだ。
不意を衝かれた里見・太田軍は、5320余人の戦死者を出し、敗戦、離散した。尚、後北条軍も3760余人戦死している。(関八州古戦録)
合戦後、後北条氏は、南に逃れた里見氏を追い、南進を開始。正月14日に下総国分寺、15日に八幡神社、16日に船橋大神宮、25日に中山法華経寺に制札を下している。
このころ上杉謙信は、小田城(茨城県筑波町)攻めの最中であり、国府台の合戦を謙信が知ったのは既に勝敗が決まった後であった。小田城は29日に陥落したものの、筑波と国府台の距離は遠くはなく、合戦前に謙信が駆けつけることができれば、歴史は変わったのかもしれない。
<市川戦争(市川・船橋戦争)/1868年(慶応4年)>
慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まり、4月11日には江戸城が無血開城された。
江戸城明渡しを不満とする旧幕臣・旗本らは、部隊を組んで江戸を脱出。
4月12日に旧幕府・陸軍歩兵奉行、大鳥圭介や土方歳三率いる新撰組の残党らが国府台に集結し、軍議の結果、隊長を大鳥圭介、副隊長を土方歳三とする総勢2000人の部隊を編成。彼らは、宇都宮、日光、会津と転戦し、仙台で旧幕府海軍副総裁であった榎本武揚と合流し、函館の五稜郭に立てこもる。
一方、江戸を船で脱出した福田八郎右衛門道直、江原鋳三郎率いる旧撒兵隊(さっぺいたい)は4月12日に、木更津に本陣をおき、総勢2000人の部隊で「徳川義軍府」を称した。
4月29日に江原率いる義軍府第一大隊は木更津から北上し、中山法華経寺に本陣をかまえ、市川、国府台、真間まで進軍してきていた征東軍(官軍)とぶつかり、銃撃による市川戦争がおこっている。
当初、義軍府は、市川、八幡、船橋の宿並みを占領し、優勢だったのもつかの間、薩摩藩兵などの援軍を得た征東軍の反撃により、敗走となった。
この時、市川宿の家数200余軒のうち127軒が焼失し、669人が被災した。